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野川の歴史

 まだ野川のあたり一面に田んぼが広がっていた頃、野川は自然の川としてのありのままの姿をして流れていた。
今のように直線的な川ではなくて蛇行を繰り返す小さな川だった。 
コンクリートや屋根が地面を覆うことなく、雨は大地に吸収され取り入れられた。
そして時間をかけて湧水としてこんこんと地上に湧き出す。
無数の湧水が集まり豊かな水量の清水を野川に供給していた。
田んぼの水は野川から水路を通って直接引かれ、春になるとメダカやドジョウが産卵しにやってきた。

川にはウナギやコイ、ハヤ、ナマズ、スッポンなど多くの生き物が生息し、それらのたくさんの収穫があった。
また、野川は子供たちの格好の遊び場でもあり、泳いだり釣りをしたりして自然の中で自由に遊びまわった。
水車小屋では、絶えず流れる野川の水を利用して水車を回し、収穫した米などの穀物の脱穀をしていた。
その頃の人々は自然と共に平穏な日々を生きていたに違いない。

しかし、普段穏やかな面を見せる野川も、少し長雨が続くとその姿は変貌した。
水はあふれかえって、田んぼは水浸しになった。
機動隊が出動し、ゴムボートで孤立した人々の救出を行うこともあった。
ボットン便所の底から汚物があふれ出てきて、水が干上がった後で役所の職員は消毒薬散布に大忙しだったそうだ。

その様なわけで、地元の人は野川のことを「あばれ川」や「大川」と呼んでいた。
しょっちゅう氾濫する野川に対する地元の人の感情は、驚くことに次のようなものだった。


 「一方、野川はよく氾濫していた。ハケ下の農地や民家が台風のたびに泥海となるのはしばしばで、洪水の後は村中で後始末に追わされたと土地古老は話す。しかし、そこには悲惨さや無念さはなく、むしろ、被害が少なくてすんだことの喜びや、魚がたくさん取れたことの記憶が優って、年中行事のように語られている。洪水は当たり前のことであり、なぜ水が出るのかもよく知っていた。」

 戦後になると、流域周辺の都市化がすすみ、住宅が立ち並び、道路はコンクリートで覆われた(1960年代)。
そのため、雨が降ると水は地面に吸収されるまもなく、屋根や道路の表面を流れて川に流れていくようになった。
そうすると、大雨が降るたびに急激に水量が増えるため、氾濫がしばしば起こるようになった。
また、生活排水の垂れ流しによる水質悪化はかなり最悪な問題であった。
野川をながれる大半の水が生活排水となってしまったのである(1965年前後がピーク)。
あまりの汚さと異臭に耐えかねて、ふたをしてしまえ、という意見が出る中、下水道の整備と野川復活を願う多くの市民が集まった。
市民のボランティアによる自然再生活動によって、野川の清流復活への扉が開かれていった。

 待ちに待った下水道設備がだんだんと整えられ、家庭からの排水がなくなり水質の問題は一応解決されつつあった。
しかし、それまで水量の半分以上を生活排水に頼っていた野川にとって、水量だけ見ればこれは大きな打撃だった。
それに加え市街化によって湧水が少なくなり、枯渇問題が出てきた。
1965年にはすでに玉川上水の通水は停止されている。
これらのことが重なり、野川の水量は激減してしまった。
今でも冬から春にかけての乾季に、瀬切れによって川底の石がむき出しになることは、よくあることとなってしまっている。
下水道の普及によって水質はよくなったものの、今度は水量減少という問題が浮き上がってきてしまったのである。
今、市民と行政が協力、連携して野川の自然維持とさらなる向上を目指し、たくさんの団体が活動している。






参考文献:狛江市役所ホームページ 語り継ぐむかし
     『野川は甦るのか?』 発行:とうきゅう環境浄化財団